よでん
夜に、電車の電で、夜電。電話の電ではないから、「よるでん」ではない。「よでん」である。
そんな読み方はしないし、そんな言葉も無い。が、私は夜の電車のことを心の中で「よでん」と呼んでいるのだ。
中学校から電車通学を始めた。
初めての通勤ラッシュに揉まれながら、初めての通学定期をずっと握り締めていた。
通学定期にクッキリと印字された最寄り駅と学校の最寄り駅、そしてそれを繋ぐ矢印と「中」「学」の文字、全てが新鮮でワクワクしていた。
部活を始めて、初めての「よでん」も体験した。
吊革に両手を引っ掛けて、両腕で頭を挟み込むようにしてうつらうつらするサラリーマン。座席には窓にもたれて口を開けたまま眠っているOL。そして車窓は鏡のように車内が映っている。
私はそこに顔を近付けて、「よでん」の車窓を眺めるのが大好きだった。
ベッドタウン特有の大きな集合住宅が灯している規則的な明かりが好きだった。そこには夫の帰りを待つ奥さんと息子がいるのだと、勝手に想像を膨らませるのが楽しくて仕方無かった。
駅沿いの自動車学校では、ゆっくりと教習車が所内を回っていた。まるでトミカのようで、小人達の世界を眺めているようで、目が離せなかった。
中学生の私は、常に「よでん」を楽しんでいた。
月日は経ち、無事に大学へ入学した。「よでん」の定期ではなく、新しいカードで地下鉄の定期を買った。
大学は何もかもが刺激的で、中高一貫校の狭い世界しか見つめていなかった自分にはあまりにも広かった。広過ぎた。
毎日が新鮮だった。
が、新しいことを知る度に、あれ程憧れていた大学生活を過ごしていく度に、何だか寂しくなった。
両手で抱えきれない程の存在だったものが、少しずつ萎んでいくような気がした。
「こんなもんか」と、大学生活を現実的に認識していくのが虚しかった。
地下鉄には、「よでん」の車窓が無かった。
今日は、地下鉄が地上に出たときに、座席から車窓を眺めた。
そこには、あの頃と変わらない「よでん」の景色があった。
「よでん」の車窓が無かった訳ではない、いつの間にか「よでん」から離れていったのは私でしかなかったのだ。私が新鮮さを見つける目を失っていたのだ。
電車からは、私の住むマンションの規則的な明かりがあった。
今、私の家族は私の帰宅を待っている。